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様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第17回 日本を知り日本を発信するための英語:
     言語社会学者の鈴木孝夫先生に聞く その1

鈴木 孝夫(すずき たかお)先生 鈴木 孝夫(すずき たかお)先生


慶應義塾大学名誉教授
慶應義塾大学医学部入学後 文学部英文科に移籍し卒業
ミシガン大学及びカナダ・マギル大学に留学
後にイエール大学及びイリノイ大学客員教授
ケンブリッジ大学客員フェロー
日本野鳥の会顧問

鈴木 佑治(聞き手)先生 鈴木 佑治(聞き手)


立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

今回お話を伺うのは、現在慶應義塾大学名誉教授で言語社会学者の鈴木孝夫先生です。著書は、昭和47年に出版された『ことばと文化』をはじめ、『武器としてのことば』『閉ざされた言語・日本語の世界』『人にはどれだけのものが必要か』など多数あります。私は先生の言われる「発信」という考え方を元に、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスや立命館大学で発信する英語プログラムを立ち上げました。今回は鈴木孝夫先生のプロフィールをご紹介しながら、外国語教育の理念について伺います。

慶應義塾大学医学部入学

鈴木佑治:まず、鈴木孝夫先生は1944年に慶應義塾大学医学部に入学されました。

鈴木孝夫:そして1946年に医学部の予科を出た。その頃は大学が予科と本科に分かれていたんです。

鈴木佑治:予科とは今で言う大学の一般教養課程ですね。

鈴木孝夫:そうです。戦時中に入学して、予科2年の8月に戦争が終わった。すると、予科が昔のようにもう1年延びた。そして学部には1学期だけ通いました。けれども、色々なことがあってね。戦争までは、世界の医学の中心はドイツだったのです。だから医学者になるためには、ドイツ語が完璧に読めて、留学するっていえばドイツだった。それが途中でドイツが戦争に負けてアメリカが勝っちゃった。だから、慶應の医学部も戦後は英語が医学部の第一外国語に切り替わった。私達はドイツ語世代の最後か最後から2番目の世代として、予科はドイツ語で出た。でも学部へ行くと、ドイツ語ではなく全然違う英語で研究をやることになった。それからお医者さんってね、骨の名前とか病気の名前、薬の名前はほとんどラテン語か、ギリシャ語をラテン語化したものを使っている。

鈴木佑治:そこでラテン語を?

鈴木孝夫先生鈴木孝夫:そう。それからフランス語は任意科目としてあったのです。だから、私は医学部にいる間に、ドイツ語と英語とラテン語とフランス語を学んだ。私はおしゃべりだし、医学よりも広い言葉の研究、英語・ドイツ語・ラテン語・フランス語というような言葉が、好きだし向いていると思った。

医学部から文学部へ移籍

鈴木佑治:それで医学部から文学部に移籍されて英文学を専攻されたのでしょうか?

鈴木孝夫:そうです。そこで英文科に入ろうと思って当時の学部長のうちへ行ってね。英語学を学びたい、なにとぞよろしくお願いしますと言ったら、学部長は玄関で立ちふさがって、絶対お前は怪しいから許可しないと言う。どうしてですかと聞くと、「文学部というのは俺が学部長だからよく知っているけど、出来の悪い学生か不良が入る学部なんだ」と言うのです。現在の文学部は、善男善女が入るけど、昔の文学部っていうのは、親も勘当して月謝を出さないというような伝統があった。「反対に医学部はしゃくだけれども秀才ばかりが集まっている。その秀才が集まっているところから、のこのこと文学部に自ら来るというのは、絶対に何か魂胆がある。共産党本部の秘密指令を受けて、三田にオルグを作ってかき回そうっていう、お前はその秘密の手先だろう」と言われたの。もうすごくびっくりしてね(笑)。

鈴木佑治:意外と知られていないのですけども、日本共産党の野坂参三氏は慶應の経済学部出身ですよね。

鈴木孝夫:要するに金持ちや貴族は自分が食うに困らないからみじめな人に同情したりする。その貴族の社会主義っていうのが慶應はすごかった。当時は赤旗振って米よこせという運動が盛んで大変だった。アメリカではマッカーシズムという赤狩りの時代。だから学部長は慶應が今平穏なのに、その赤旗の煽動を私がしたりしたらかなわんと思ったのですね。それで私はどうして入れたかというと、入学するときには、挨拶もしなかった慶應義塾大学病院長だった遠縁の叔父に、医学部をやめて文学部に移籍したいだけという変わった紹介状を書いてもらい、それを持って行った。そうしたら今度は学部長も喜んでくれてね。文学部再興のホープだ、あなたがこの文学部を良くするんだと言ってね、それからバスで会うたびに肩をたたかれて。そんなことで医学部から文学部へ来た。

卒業後アメリカ・ミシガン大学に留学

鈴木佑治:そして1950年3月に卒業して、4月に慶應義塾大学文学部助手になられたと伺っております。

鈴木孝夫:それで7月に日本で戦後初のガリオア留学試験、つまりフルブライトの前身が慶應のキャンパスであって僕が受かった。それで行ったのが、文法論のチャールズ・フリーズや音韻論のケネス・パイクとか、比較文化のラドとかがいたミシガン大学。私はそれまで知らなかったのだけどアメリカで英語やるならミシガンと言われるくらいメッカだった。そこでは構造主義言語学と言って、音を分析して音韻を決めて、アメリカ・インディアンとかアフリカ人など口語だけで文字を持たない民族にその言語を使ってどのように聖書を記しキリスト教を広めるかということを考えていた。パイクが理論をつくり、ユージン・ナイダが実行した。ミシガン大学はそんな学者達が大勢居ました。

鈴木佑治:言語は音である、音声以外のものは一切言語学では無視していいという考え方ですね。

鈴木孝夫:口からでた音波が人の耳に届く、この見えない音波が言語学の材料の全てで、それ以外の例えば意味とか頭の中での考えなどということは目に見えないので、言語学では扱わない、という学問でした。もし扱いたいなら心理学とか哲学に行きなさいと言われたね。それから文字については、言語学者なら誰でも読むブルームフィールドの著書『言語』で、人間をいかなる角度から写真でとっても、そのとられた人間は変わらない、びくともしない、写真の影響は受けない、それと同じで、言語もどんな文字で書こうと、エジプトの象形文字で書こうとも、ギリシャ文字で書こうと、言語はびくともしない、だから言語を勉強するときに文字は一切研究しなくていい、ということで、文字の研究というものを一切排除していた。でも文字がないと本や新聞も何も出来ないから、そのときはもっとも合理的で簡単な文字がいい、それがローマ字であると。だからアメリカ占領軍総司令部の教育委員会がね、日本は悪魔の文字である漢字を使うのを止めて、ローマ字を使うようにしたほうがいいと言った。その日本語のローマ字化、漢字廃止の昭和20年代の日本語を巡る問題は、ブルームフィールドなどの構造言語学者の理論が根拠になっていた。要するに日本語の文字が難しすぎたから多くの人が教育を受けられず、国民が洗脳されて戦争になった、だから日本に正しい教育を定着させるためには簡単に文字を学べるようローマ字にしろ、これが進駐軍の考え方だった。ところが、アメリカと言うのは科学至上主義だから、いかに日本で漢字が普及していないか、教育を阻害しているかを科学的に調べようということで調査を実施した。そういうところはアメリカは偉いですね。それで国立国語研究所を日本政府につくらせてそれを調査させた。すると田舎のおじいさんやおばあさんまでが意外に漢字がちゃんと書けて普及していることが分かった。だから漢字が難しくて文字が読めないから、日本は世界の情勢を読み間違えたということではなくて、漢字とは無関係にあの時代が進んだということが分かったんですね。それで総司令部は漢字廃止論をひっこめて、数を制限しろに後退した。

ミシガン大学留学中に古典語科へ移籍

鈴木佑治:それで、当時アメリカへ行った日本人の先生方は歴史言語学、ギリシャ・ラテン等の古典哲学、思想などの深い教養を持っていったのに、あちらのアメリカ構造主義言語学でやっていたことは、本当に単純なことばかりだったと述べられていますよね。

鈴木孝夫:そう、だから3、4回言語学の授業に出ただけで、私はこんなところに1年もいたってしょうがないから日本に帰ると言った。日本のほうがよっぽど勉強できるって言ったのです。そうしたらその第1回ガリオア留学生として一緒に行った30、40代で戦争のために戦中、戦後と留学を足踏みしていた外務省の役人とか東大の教授とかが、先月大学を出ましたというようなぽっと出の坊やの僕に、「孝夫ちゃん、せっかく選ばれてきたんだから1年我慢してアメリカ見て帰りなさいよ」「鈴木君、批判もいいけども、人生長くて日本に帰ればずっと批判をやれる。今たった1年しかないんだから、できるだけ吸収しよう。」って私をいさめるように言うんだ。でもアメリカの先生方はめったに食い下がらない他の日本の生徒よりもうるさく批判する私を喜んでくれたよ。

鈴木佑治:アメリカ構造主義言語学は知的好奇心を満たせない、と思った先生は、言語学の授業ではなくギリシャ語とかラテン語を学ぶ古典語科の授業を取り始めた。

鈴木孝夫:そう、ミシガン大学で古典ギリシャ語に移って、留学前から日本で井筒俊彦先生のところでもやっていた、ギリシャ語のプラトンのテキストを読むクラスに入った。私はアメリカに行ってギリシャ語を深めるために1年を使ったと言うわけです。それに当時の日本の学界はイギリス英語が主流だったから、変なアメリカ英語に毒されたくないと思っていた。戦前の日本では隣の部屋で英語をしゃべっていたらイギリス人がいると思われるほどそっくりイギリス風でなければいけないと言われた。それほど、和臭、つまり日本人のなまりのある英語はいけないときつく教えられていたのですね。だから私なんてJonesの発音辞典を何版もくらべて違いを見つけたりして、なるべくイギリス風になろうと必死に努力をしていました。そんな時代です。だから時たま短波でBBCなんて聞くとね、ああ、これこそが本物の英語だってジーンと胸にきてね。当時はアメリカの英語はイギリスとはまったく違ったでしょ。今でこそ私もアメリカ英語どころか日本式英語でも構わないと言っているけれど、当時私は完全にイギリス志向だったんですね。そんなわけで私は最初英文科の助教授としてアメリカに行ったのに、英語ではなくギリシャ語を学んで帰ってきた。アメリカ英語の何もかもいやだったのです。それは戦争に敗れた悔しさもあったのでしょう。

英文科からイスラム研究所へ留学 帰国後言語文化研究所へ

鈴木佑治:1964年ごろまで英文科にいらして、それからまたカナダのモントリオールのマギル大学に留学されました。

鈴木孝夫:そのイスラム研究所に、英文科の助教授でありながら留学したのです。慶應はよく許してくれたよね。そんな変わり者を温かく見守ってくれました。

鈴木佑治:それで帰国後数年して英文科から、言語文化研究所に移籍されたのでしょうか。

鈴木孝夫:そう、慶應はさっきも言った井筒俊彦というイスラムの世界的権威、宝を引きとめておくために言語文化研究所をつくりました。でも一人だけじゃ「所」とはいえないでしょう。だからそこに所長としてちょうど停年になられた東大教授の辻直四郎先生というサンスクリット語で世界的に有名な先生をお迎えしました。そして助教授がいなくてはということで私が入った。それに助手がもうひとり加わりました。だいたい元の古巣におさまりきらない、そういう変わった先生が集まってきた。

鈴木佑治先生鈴木佑治:それで言語文化研究所を創設されて、その後この研究所の所長をされました。そのまた後慶應の大学院社会学研究科の委員長を6年なさいました。

日本の大学の外国語教育

鈴木佑治:その後慶應義塾大学が1990年にSFCをはじめるときに言語コミュニケーション部門の基本理念を作られました。

鈴木孝夫:新しい時代にふさわしい大学の語学教育を考えようということです。日本の大学の外国語教育は、明治時代の世界情勢と当時の日本の国内情勢やその他をにらみあわせて、英独仏中心で動いていた。トロイカシステムと言って大学生は全部英語を勉強する、そして第二外国語は学生を半分にわって一方にフランス語、もう半分にドイツ語を習わせて、英独仏語の3頭立て馬車で遅れた日本を西洋の国に近づけようと、富国強兵を目指してひっぱるという目標を立てて突っ走って大成功した。徳川末期の鎖国から出たばかりの遅れた国があっという間に50年くらいで近代的な国になり、超大国のロシアと戦争してやっとこさだけど勝ったりして、世界に数少ない1等国になった。明治の言語政策の狙いはイギリスに蓄積された世界の文明を英語を学ぶことで日本が全部吸収し、イギリスに足りないもの、フランスの生理学とか民法、ドイツの医学とか光学、双眼鏡とか顕微鏡ね、それから染料、化学肥料、憲法などは仏独語で補った。それらを1日も早く翻訳し日本のものにして近代国家としてカッコつける必要があった。でも一度成功した体制って言うのはすべてその後は必ずだめになる。ところがつい最近までまだ明治に確立したトロイカ体制だったのです。

また、戦前の大学はエリートの通うところで、中学ですら義務教育じゃなかったから、大学生なんて町に一人とか、極少人数だった。その少人数へほどこした語学教育を戦後大衆化した大学でもそのままやってしまった。だから、英語は出来ませんどころか、何語も出来ませんというように語学教育が形骸化、空洞化してしまった。

また、そもそも日本の外国語教育の伝統というのは、外国の文献を翻訳することで始まった。初めは古代中国の技術、思想を学び、次はオランダ語で医学を学び、そして英独仏語でヨーロッパの技術を学ぶということが中心だった。外国人は日本にほとんど来なかったから生の会話は必要なかった。だから会話などの不要なものを切った。だから日本人の外国語能力って言うのは気の毒なほどに会話は出来ない。その代わり本を読む力っていうのは明治の人には今の私達も敵わないくらいあったのです。

新しい外国語教育の理念

鈴木佑治:新しい慶應の湘南藤沢キャンパス(SFC)ではそうした明治以来の旧体制をやめて、改革しようということでしたね。

鈴木孝夫:日本では惰性でいつまでも英語が大事でフランス語ドイツ語もとやってきたけれど、世界が変わり日本が変わると、本当に今日本に必要な外国語は明治の時と大分変わった。例えば韓国と北朝鮮はかつて日本の植民地だったけれど、それが独立して交渉すべき隣人になった。だから朝鮮語の勉強が必要になる。それから日本の一番怖い隣人はロシア。歴史的に見ても日本はロシアと2度3度戦争した経緯があるし、北方領土問題もある。そのロシアに対応するためにはロシア語が必要です。それからイスラム圏のアラビア語。日本は戦後燃料革命でそれまでの石炭が急に石油に変わった。するとOPECの中心がアラブ湾岸諸国、サウジアラビアとかイラクとか。だからイスラムが日本の生命線として突如現れてきた。こう考えると、現在は第1外国語をアラビア語かロシア語にして、第2外国語を朝鮮語にしてもおかしくない。その他の少数の物好きがドイツ語フランス語に行くというようになるのが国の必要に応じた形といえる。ではなぜその形に出来ないのか。それは戦後戦争に負けたために「国益」という概念でものを論じられなくなってきたから。国家は悪という考え方が非常に強くなった。そうするとものを決める規準が自分本位の好き嫌いになる。そこでやりたい外国語は?ときくと、なんとなくイタリア語と答える。でもイタリアは日本に攻めて来る心配もないし、デザインとかファッションは別だけど特に学ぶ技術もない。だから本当は本人の好き嫌いでなく、いやでも国家のためにロシアとアラビア語をやりなさいと言えればいいのだけれど。その国家って言う概念がみんなの意識にないから強制できず、国家の金を費やして運営している日本の大学には、前からの惰性で不必要なものばかりが残ってしまっている。

鈴木佑治:英独仏に学ぶ時代が終わって、世界の情勢を見ると今まで欧米文化の受信ばかりをしていた日本が発信していく時代になりました。その相手がロシアやアラブ諸国、中国、韓国、朝鮮などを含めた広い世界ということですね。

鈴木孝夫先生鈴木孝夫:そう。英仏独だけだった相手がロシア・アラブ・朝鮮を含めた世界に変わり、そして文献中心で外から学ぶのが主だったものが日本からの情報発信型に変わった。だからSFCでは、語学の授業としては英語はない、「英語を習う」のではなくて「英語で学ぶ」体制にしたかった。英語は大事だけれども、大学にまで来て週に1、2時間習わなければ英語力が上がらないような程度の学生はいらない、その程度の英語学習はとっくに済んでいますというエリートでなければ指導者になれない、ということです。昔と違って今は家でも一生懸命やればできるようになるだけのテレビもラジオもビデオもCDもある。大金を払って英語教室に通うより、やりたければ自分で寝る時間を惜しんでJAPAN TIMESを読むとか、やるつもりならもうありとあらゆる手段が身のまわりにある。私なんて医学部にいた時に英語を一日6時間声を出して勉強した。だからできるようになった。学校というのは、社会ではどこもできない、教科書も辞書もない、だけど国家が必要としているものをやる所です。明治の頃は学校以外には英語を学ぶことができなかった。だから大学ですべての学生に英語を必修にしたのです。今は学校の外で英語は十分やれる。世界を相手に、日本人である自分を英語やその他の外国語でどれだけ発信できるかというのが今日本を背負って立つ若者には必要なことだ。

SFCで実践した外国語教育

鈴木佑治:明治以来の従来どおりの外国語教育ではなくて、日本というこの国の将来、これからを考えた外国語教育をSFCで実現しようということですね。

鈴木孝夫:明治の始め、福沢諭吉は新しい日本のリーダーを作るといって慶應をはじめた。今度は日本を改革するために藤沢に新しい学校を作って、何もかも国際化した今の日本に必要な人材の語学教育はこうあるべきだというのを、私が引き受けて作りますと言ったのです。だから私は英語中心ではなくて、今の日本にとって国家として何が必要かという立場をもう一遍考えた。日本は下手すると植民地になる、潰されるという明治時代の独立を守る精神、危機感と同じものから出た世界戦略なんです。今全世界はG7で代表されるように、日本以外のG6は言語も宗教も人種も風俗習慣も全部ヨーロッパ・アメリカが中心です。すべて白人でキリスト教、言語は英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語っていうのは全部元が一緒、だから日本は大海に浮かぶ一滴の異物として入っているのです。言語は日本語っていう彼らには訳わからない独特の言語、体はモンゴロイドで、文化は全然違う、宗教はキリスト教でない、風俗習慣も違う。洋服は着ているけれども、元来は下駄はいて着物を着ていて、食べ物は箸でお米で、むこうはパン。全て違うのは日本だけなのです。だからG7の各国の代表者たちの並んだ写真を見ると日本の首相だけが一人ポツンと、なんとなくかわいそうに孤立している。大体が一人仲間外れで欧米語で雑談できないんですよ。日本の首相は通訳がいないと話せない。本当はそういう時に必要なのは、当意即妙に面白いことを言って、冗談を言ってみんなを笑わすとか、そういう発信力です。英語なら英語でもいいがそれを使って語ったり、討論したりするとき、その材料は日本自身のこと。それが必要なんだ。

鈴木佑治:先生の理念のひとつは、慶應のようないわゆるトップ校に来るような学生は、もうすでに英語はできているべきだ。現在は自分で英語を学習できる環境も十分あるので、自覚を持って自分で学習し、大学でわざわざ外国語として教育する必要がないということ。もうひとつは、今までのように英米のことを学ぶ授業ではなく、英語で学び、英語で日本を発信する授業環境を整えなさいということですね。

鈴木孝夫:今の1点目をはっきり言うと、私はエリートなんかじゃありません、庶民ですと言うジェスチャーは捨てなさいということ。あなた方は日本のエリートなのです。あなた方は悪びれず、自分たちは指導者なんだ、という自覚を持つべきなのです。エリートだということは大変に辛いことなのです。責任重大です。そういう自覚が必要です。第一、自分がどう言おうと外から一般の人が見るとあなた方はエリートだと思われているのです。だから外部の人の期待に堂々と応える気概をもつべきです。日本は国家としては、外国を習う時代は過ぎた。今度は世界に日本が教える時代です。それをしないから、その責任を果たさないから、日本は世界の舞台に立ってみんなから見られているのに、主役のくせにその自覚がなくて自分は黒子だと思いこんでいる。自分は見えないと思っていてはダメです。もっと自覚と自信を持って胸をはって発信していかなくちゃ。そのために英語を使うのであって、英語を受身で学ぶ段階は終わった。英語を積極的に利用する。それがSFC立ち上げの私の想いです。

※インタビュー後記

私は、1963年の学部2年時に、鈴木孝夫先生の「言語学概論」を履修しました。先生の知識の広さと深さに圧倒され、学問の世界に興味を抱くようになり今日に至っております。英語教育に関する先生の持論は、他文化受信型から自国文化発信型への脱却です。私は、それを実現すべく、2008年3月までは慶應義塾大学SFCで、同年4月からは立命館大学生命科学・薬学部で英語プログラムを担当してまいりました。英語で自分の考えを発信する学生を目の当たりにしてその考えが間違っていなかったという思いを深くしております。先生のインタビューは次回以降も続きます。

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