英語に限らず外国語を学習していると、言葉の世界の奥深さに気付かされます。古来の日本人は言霊(ことだま)と評して、言葉には霊が宿り、見えざる力を働かすのだと考えました。使い慣れた短いフレーズの中にもコミュニケーションを左右するほどの力があるのです。
毎回ご好評をいただいているこのコーナーでは、テンプル大学ジャパンの川手 ミヤジェイエフスカ 恩先生が、異文化間コミュニケーションにおける言葉の使い方の重要性に焦点をあて、興味深く解説してくださいます。言葉の世界の面白さをお楽しみください。
Dr.川手 ミヤジェイエフスカ 恩(めぐみ)
テンプル大学ジャパンキャンパス教養学部
(Megumi Kawate-Mierzejewska, Ed.D., Temple University, Japan Campus)
2000年より、ETS公認コンサルタントを務めてきた。
専門分野:中間言語語用論(Interlanguage Pragmatics)
今回は、「名前の大切さ」について考えてみる。皆さんは、名前の大切さを考えたことがあるだろうか。名前や漢字の読み方を間違えたことや間違えられたことはないだろうか。 筆者も、複雑な名前を持っているので、いつも間違えられる。まず、『恩』と書いて『めぐみ』と読むが、多くの場合『恵』いう字だと思われているようだ。更に、スラブ系言語からの “Mierzejewska (ミヤジェイエフスカ)”というのは、ゲルマン系言語を話す英語母語話者にとっては『マイヤーゼジュウスカ』となるらしい。以下、日本語圏と英語圏における、名前に関するこだわりを比較しながら、個人主義を唱える英語圏では、名前はかなり大切なもののようであるということを述べる。
まず、日本人は、漢字の読み方や書き方を間違えられた時、それを訂正するか否かについて考えてみる。思うに、日本語圏では、訊かれない限り訂正しないことが多いようだ。先日、ある立派なセミナーに参加した時のことだが、セミナーの主催者はその日のセミナー講師とは何十年もの知り合いだそうだが、講師の正確な名前は、知らなかったようである。会場からのメモによりお詫びを述べたわけだが、当の主催者によれば、何十年もの間ずっとその講師の名前を実際とは違う名前と信じこんでいたという。また、知り合いのM子は、彼女の友人に「淳」という人物がいるが、ある時、印刷物を見て自分で気づくまで何回ともなく「純」と書いていたと言う。筆者に届く年賀状でも20年間ずっと未だに『恵』と書いてあるものもある。そして、筆者に関して言えば(当の本人にとってはたいしたことではないが)、日本語圏では、公私にかかわらず手紙や印刷物、セミナー名簿などで、『ミヤジェイエフスカ』という部分は、省略されていることが多い。
さて、それでは英語圏ではどうなのだろうか。思うに、英語圏では日本人が思う以上に、名前は大切なもののようである。前出のM子(Momoko:仮名)によれば、彼女は同僚のアメリカ英語話者である “Aleda(仮名)”にメイルを書いた時、名前の綴りを間違えて “Adela”と何回か書いてしまったらしい。 そうしたら、何とその同僚が返してきたメイルは、“Dear Mokomo (I couldn't resist!!!)”というものだったという。筆者の知る限りでは、アメリカ英語話者は必ずといっていい程、訂正をしてくる。殆どの場合は、前出のような極端な例は見られないが、明確かつポライトに訂正してくる。例えば “…my family name is spelled "Huddsey", not Huddesy. There are people with the family name of Huddesy, so I just thought I'd point that out.”というような具合に。これらのケースからも伺えるように、名前はかなり大切なものであるようだ。考えてみれば、英語圏もしくは英語関係の手紙や印刷物、学会やセミナー名簿などで “Mierzejewska”が省略されていたことはおそらく一度もないと思う。また、公の場では、PR氏という若干一名の例外を除けば、英語の場合は“Mierzejewska”をどう読むかというのを必ず訊かれ、フルネームで紹介されている。名前に注意を払わないというのは日本人が想像している以上に失礼に当たるようだ。ある情報によれば、北米英語母語話者が名前を省略したり間違えたりするのは、意図的、或いは潜在的な何かが背後に存在する時、もしくは意識が化石化してしまった時であろうという。
以上、今回は名前の正確さに関する考察を試みた。北米英語話者にとっては、名前は本当に大切なものであるようなので、普段から注意を払いたいものだ。最後に、グローバル化の時代を迎え、おそらく日本人にとっても、名前の正確さは今以上に大切なものとなるに違いない。