スペシャルインタビュー
英語を活かしグローバルに活躍されている方や話題の企業や団体にインタビュー
- 副代表 根本巳欧氏
- UNICEF 東京事務所
“アフリカで難民支援のインターンを経験し、国際機関で働くことを意識するようになった”
貴機関についてお聞かせください
- 編集部:
- 貴機関はとても有名な機関でお名前は存じておりましたが、今回の取材を通し、根本副代表が所属されているUNICEF(国連児童基金)と日本ユニセフ協会は、別の組織だと知りました。二つの組織の違いから教えていただけますでしょうか。
- 根本氏:
- まず、UNICEFの成り立ちと日本との関係から説明させていただきますと、UNICEFは第二次世界大戦後に、ヨーロッパがとても疲弊し各地で難民が発生した頃、子どもの難民支援のための組織として始まりました。1989年の国連総会で採択され、世界のほとんどの国で締結されている「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」の実現を使命に持つ国連組織です。今では、緊急支援だけでなく、特にアフリカ地域などの開発支援も行っています。
一方、日本との関わりを説明しますと、実は日本も第二次世界大戦後の貧しかった時代にUNICEFの支援を受けていました。当時は学校給食用の粉ミルクや医薬品、毛布の配布などの支援を受けていましたが、復興が進むにつれて募金を集める活動も各地で始まり、1964年の東京オリンピックが開催された年に、支援をされる側からは卒業しました。そういう経緯がありまして、日本の場合は政府からの支援でなく、一般の方々や企業からの寄付を取りまとめる組織として日本ユニセフ協会が生まれました。日本ユニセフ協会は規模としてはかなり大きく、世界の国内委員会の中ではアメリカに次いで2番目に大きな資金を集めている組織です。また、我々に協力いただいている日本政府は、昨年の実績としては単独政府として世界6番目に大きな資金的協力をいただいていることから、政府と民間の両方において、日本は大きなドナーだと言えます。
UNICEF東京事務所の役割を簡単にまとめますと、ニューヨークにあるUNICEF本部の出先機関として、日本政府とUNICEFを結ぶ窓口として活動しています。一方、日本ユニセフ協会は、UNICEFとの合意の下、日本国内の民間セクターを対象に広報・募金・アドボカシー(政策提言)活動を展開している民間の組織です。ただ、日本においてはFacebookやTwitterのアカウントを共通にする等、“One UNICEF”として広報活動やアドボカシー活動を協力して行っています。
国際的な機関で活動することを目指されたきっかけを教えてください
- 根本氏:
- 父親の仕事で小学校低学年の頃に中国で3年間ほど暮らしたことがありました。当時の中国は、東西冷戦時代、「第三世界」と呼ばれた途上国グループのリーダー的な役割もあったので、通っていたインターナショナルスクールには、アフリカ諸国の大使館職員の子弟も多く、国籍も先進国のみならず様々な国の子どもがいました。そのような国籍問わず誰でも受け入れられる環境で過ごしたことで、海外に抵抗を持たずに育つことができたと思います。ところが、日本に戻り公立の小学校に編入した際に印象的なことがありました。当時小学校2年で、両親と一緒に校長先生に編入の挨拶に伺ったのですが、その時に「この教科書を声に出して読んでみてください」と渡されたのが、小学校1年生が1学期に使う教科書でした。恐らく学校としては私の日本語のレベルをチェックしたかったのだと思いますが、当時の私は子ども心にその出来事に物凄くショックを受け、「日本の小学校で日本人の自分がなぜ普通に迎え入れてもらえないのだろう」と憤慨したのを覚えています。その経験が「日本と世界」あるいは「自分自身と世界」との接点を考えるきっかけになったのではと思います。
- 編集部
- 小学生の頃にそのようなご経験をされて、その後具体的に国際機関を目指された時期はいつ頃になるのでしょうか。
- 根本氏
- 私はどちらかというと、色々と模索しながら「自分は何がやりたいのだろう」ということを考えるタイプの学生でした。法学部に在籍し、国際人権法や国境を越える人の移動に関心が生まれ、難民の権利に関する勉強を始めたこともあり、その資料集めにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の日本事務所に出入りをしていました。そこで、当時、UNHCRの国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子さんが始めた“キャンプ・サダコ”と呼ばれる研修プログラムを知りました。これは、先進国の若者に難民援助の現場を体験し知ってもらい、難民への理解を深めてもらうことを目的としたイニシアティブです。その研修に応募しないかとUNHCRの駐日事務所の方に声を掛けていただきました。研修先はケニアが希望でしたが、フランス語圏を希望する方が少なかったことと、私が第二外国語でフランス語を履修していて、フランス語の簡単な受け応えならできるということで、コートジボワールのリベリア人難民キャンプへ行くことになりました。1か月半ほどの短期でしたが、コートジボワールからリベリアへ難民の自主帰還を支援する活動のお手伝いをしました。それが、私にとっては初めてのアフリカ、さらに、インターンとはいえ初めての国際機関での経験でした。インターンを経験する前は大学に残ってそのまま研究を続けようかと迷っていたのですが、この経験を通して「実務をやりたい」と思うようになり、そこから方向転換して国際機関で働くことを意識するようになりました。研究か実務かと迷う中、日本の大学院で一生研究を続けていくのは自分には向いていないと思うようになり、留学というオプションも視野に入れるようになりました。その時にTOEFL® テストが必要になり準備を始めました。
- 編集部
- それまでに英語圏など短期留学に行かれたことはあったのでしょうか。
- 根本氏
- 大学3年の時に夏休みを利用して、アメリカへ語学留学に行きました。当時は大学に短期留学制度などがなく、自分で探してニューヨークにある学校に行きました。
- 編集部
- 日本の大学を卒業後、ニューヨーク州にあるシラキュース大学のマックスウェル・スクール大学院に進学されていますが、現地での学校生活はいかがでしたか。
- 根本氏
- 英語にはとても苦労しましたね。勉強のスタイルも日本とは全く違うもので、それは本当に大変でした。ディスカッションやディベートのような授業もあり、リーディングの量も非常に多くて大変でした。グループワーク的な少人数のチームで行う授業もありました。また、授業とは別に、アシスタントとして大学院の留学生センターで働くことで、奨学金を得ていました。そこで色々な国の人と接することで、さらに途上国への関心が高まったというメリットがあったと思います。
- 編集部
- 卒業後はすぐに国際機関で働かれたのでしょうか。
- 根本氏
- そうではありません。国際機関で働きたいという思いはありましたが、基本的に国際機関は新卒を採用しないこともあり、他の就職先を探していました。運良く、外資系コンサルタント会社に声を掛けていただきました。官公庁をはじめとするパブリックセクターをクライアントとする部署があったので、関心のある途上国開発にも繋がる公共部門の改革に関連する仕事ができると思い、就職することにしました。アメリカに本社を持つグローバル企業だったので、純粋な日本企業ではなかったですが、入社時の新人トレーニングで、業務に関する日本的なプロトコール等を学べたことは良かったと思います。その企業に勤めてしばらく経ち、より直接的に国際開発や人道支援に携わりたいと考え始めていた頃、たまたま日本ユニセフ協会で公募があるのを知り、応募し採用に至りました。そこからUNICEFとの関わりが始まりました。
次回(2018年11月20日更新予定)も引き続きUNICEF根本巳欧氏インタビュー(後編)をお届けします。お楽しみに!
- 根本巳欧氏 プロフィール
- 東京大学法学部卒業後、米国シラキュース大学大学院で公共行政管理学、国際関係論の両修士号取得。外資系コンサルティング会社、日本ユニセフ協会を経て、2004年4月にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO、子どもの保護担当)として、UNICEFシエラレオネ事務所に派遣。子どもの保護担当官としてモザンビーク事務所、パレスチナ・ガザ事務所で勤務後、東アジア太平洋地域事務所(地域緊急支援専門官)を経て、2016年10月から現職。
- UNICEF東京事務所
- UNICEF東京事務所は、本部パブリックパートナーシップ局の一部として、政府開発援助(ODA)による資金協力をはじめとする日本政府とのパートナーシップの強化を行う。また、国会議員、国際協力機構(JICA)、非政府組織(NGO)等、日本におけるパートナーとの連携促進も担っている。
UNICEF東京事務所 Webサイト: https://www.unicef.org/tokyo/jp/
上記は掲載時の情報です。予めご了承ください。最新情報は関連のWebページよりご確認ください。