アメリカの大学院を目指す人に勧めたい本の一冊にMarshall McLuhan著Understanding Media: the Extensions of Man(1964, Routledge, Routledge Classic 2001)があります。(*1)55年も前にthe electric technologyによる世界のグローバル化を予測しており、IT技術の普及でそれが現実のものとなりつつある今、再度脚光を浴びています。以下のサイトに全文が掲載されています。
[PDF] Marshall McLuhan Understanding Media: The Extensions of Man -Robyn Backen
本書はPart IとPart IIの2部構成で、“Introduction”を除き33編のessaysが収録されています。Part Iには“Introduction”と[1]~[7]の7編が、Part Ⅱには[8]~[33]の26編が収録されています。Part Iでは基本的な考え方を述べ、Part IIでは26個の具体例を挙げて説明しています。本稿では、余白の関係で、Part Iの[2]Media Hot and Coldを取り上げます。その前にその前提として[1] The Medium is the Messageの要点を押さえておく必要があります。
コミュニケーションとは当事者間でmessagesを交換し意思疎通を図ることです。その為にはmessagesと表現媒体のmedia(単数形medium)が必要です。通常は、messagesを一義的なもの、mediaを二義的なものと考えます。それに反してMcLuhanは“The medium is the message.”と唱えます。すなわち、mediaこそが一義的であり、messageはさして重要ではないと断言します。
McLuhanのいうmedia(単数medium)は、PartⅡの26個の具体例が示すように、物、テクノロジー、制度、すなわち、人が作る有形無形の全ての物を指します。人物さえも含まれます。それぞれのmediaは、ヒトの身体、中枢神経の延長(the extensions of man)であり、個人と社会に多大な結果(the personal and social consequences)と影響(effects)を与えるものと主張します。(*2)例えば、clothingは肌の延長で、wheelは足の延長であり、それぞれ人類に多大な影響をもたらしたと考えます。
その上で、いかなるmediumにおいても、そのmessage(またはcontent)は元々存在せず、あるのはmediumがもたらす結果とか影響であると論じます。
例えば、電灯(the electric light)の発明により、それ以前は日中にしかできない様々な活動が夜間にできるようになりました(野球のナイトゲームなど)。しかしそれは後世に生じた事象であり発明時にコンテンツとして存在したわけではありません。すなわち、電灯というmediumには元々コンテンツは無く、あるのは電燈そのものがもたらした結果のみであると論じています。(*3)
これは記号学の開祖Ferdinand de Saussure(*4)が提唱した記号の概念を覆す考え方です。Saussureの記号とは、以下の図が示すように、形態と内容がコインの表裏のように一体化されたものです。(*5)
McLuhanの考え方では、形態(medium)はあるものの、内容(message)は空白のままなのです。形態がもたらす結果・影響が重要な要素として付帯されることになりますが、それはオーソドックスの記号学が考える内容には当てはまりません。記号の構成分子として不可欠な内容は存在しないことになります。(*6)
こうした考え方を基に、McLuhanは、文明の歴史とはその文明が作り出したmediaがもたらす影響・結果の集積(total effects)と捉え、西洋社会の過去と現在を分析し、未来を予測しました。西洋社会の古代から近代に至るまでの3000年間を機械化の時代(the mechanical time)と称し、その間に発明された様々な機械(mechanical media)が、西洋人にどのような影響を与えてきたかを考察します。
古代において、アルファベット(the phonetic alphabet)の導入が聴覚から視覚偏重に移行させ、近世において、Gutenbergにより開発された印刷技術が抽象化、視覚化に拍車をかけた。そしてその後、近代に至るまでの間に発明・開発・導入された様々なmechanical mediaが、細分化(fragmentation)、分裂(fission)、専門性(specialism)、線状化(lineality)、順列化(sequential)、連続性(continuity)、単一性(uniformity)、拡散(decentralization)、個人主義(individualism)などの特徴を助長する結果になった。(*7)19世紀後半にthe electric ageが幕開けし、様々なelectric mediaが浸透していく。Electric mediaが身体、中枢神経の延長としてもたらす影響は、mechanical mediaがもたらした影響とは真逆の融合(fusion)、全体性(wholeness)、多様性(diversity)である、と述べています。
[1] The Medium is the Messageでの分析の流れを受け、今回取り上げる[2] Media Hot and Coldでは、mediaをhot mediaとcold mediaに分け、それぞれがもたらす影響を分析します。ちなみに、McLuhanはcoldの代わりにcoolという語を頻繁に使っています。恐らく、coldという語が持つ「冷たい」というネガティブな含みを一掃するために、ポジティブな含みを持つcoolという言葉も併用したのでしょう。本稿でもそれに従い2つの言葉を併用します。(*8)
簡単にまとめると、Hot mediaは、一つの感覚のみを延長させ(extend one single sense)、かつ、情報量が多い(in high definition or filled with data)mediaを指す。他方、cold mediaは、情報量が少い(in low definition or with little data)mediaを指す。例えば、photographは視覚情報が多い(in high definition)のでhot mediaであるが、cartoonは視覚情報が少ない(in low definition)ので cold mediaである、とします。
また、情報量が多いか少ないかは、audienceによる情報補完(completion by the audience)の度合いに関係し、情報補完度が高ければaudienceによる参加度(participation)が増し、低ければ減少する。情報満載のhot mediaではaudienceによる情報補完度が低く、参加度も低くなる(low in participation)が、逆に情報量が少ないcold mediaでは、audienceによる情報補完が必須になり、参加度が高くなる(high in articipation)。
例えば、cool mediumのspeechは情報が乏しく、聞き手は情報を補完しなければ理解できず参加度は高まる。それに対して、hot medium のphotographは十分な情報が提供されており、補完の必要も無く参加度は低い。 端的に言えば、“hot media”は一方通行型のコミュニケーションに、cold mediaは両方向型のコミュニケーションに適していると解釈できます。(*9)
以下、McLuhanがhot mediumとcold mediumとする具体例を本文から拾い仕分けてみました。
Hot media
[定義] High in definition, filled with data, low in participation by the audience.
[具体例]Money, Wheel, Writing, Photograph, Radio, Movie or film media, The phonetic alphabet, Paper for writing, Lecture, Book, Print, Waltz, Hot jazz of radio and movie, Print technology in Renaissance, F.D.R.(Franklin Delano Roosevelt), Newton, Locke,(*10)The specialist technology, etc.
Cold media
[定義]Low in definition, with little data, high in participation by the audience.
[具体例]Cartoon, TV, Speech, Telephone, Hierographic or ideographic written characters, Stone for writing, Seminar, Dialogue, Twist, Cool jazz, Coolidge (John Calvin Coolidge),William Blake(*11), Humor and play, Aphorism, Organic myth, Practical and participant joke, Pun, The nonspecialist technology, etc,
Hot mediaとされるmediaは、機械化時期(the mechanical time)のmechanical mediaと重なります。西洋先進国(advanced countries)(*12)、わけても、都会人(the city slickers)に浸透しているとし、総称してhot cultureと呼んでいます。対照的にcold mediaは、後進国(backward countries)や、先進国でもthe rustic(田舎の人々)に浸透していると主張し、総称してcold cultureと呼んでいます。
Hot cultureのmedia とcold cultureのmediaの違いは、前者がthe specialist technologyとしてのmediaであるのに対し、後者はthe nonspecialist technologyのmediaであると言います。当然、それぞれがもたらす影響にも明らかな違いが生じます。
アルファベット導入を皮切りに脈々と続いた西洋社会のthe mechanical timeのmechanical mediaがもたらした影響は、hot mediaのもたらしたものということになります。その特徴は、ニートなタイトパッケージ的(suited for neat tight packages)、均一的(uniform)、反復的(repetitive)などです。それに、the specialist technologyとしてのhot mediaがもたらす影響が加わります。爆発的(explosive)、強烈な(intense)、破壊的(disruptive)などです。
反対に、the nonspecialist technologyとしてのcold mediaは、内発的(implosive)、融合的(whole)などで集約できる影響を及ぼすと述べています。
3000年もの間多くのhot mechanical technologies(media)に慣れ親しんできた西洋社会に、19世紀後半からthe electric ageが訪れ、mechanical technologies(media)に代わりelectric technologies(media)が普及し始めます。Electric technologies(media)はcold mediaで、the nonspecialist technologyであることから、hot cultureの西洋社会は、いわゆる、後進国(backward countries)に比べ、それに順応するには相当手間がかかるであろうと予測します。
かつて西洋社会は、開発したhot mediaを後進国であるcold cultureに持ち込み、持ち込まれた社会に破壊的インパクト(the disruptive impact)を与えました。一例として、かつてのオーストラリアで宣教師がアボリジナル社会に鉄製の斧を導入した際の衝撃を引用しています。(*13)宣教師たちは、数少ない石斧が男達の狩に使用され婦女子は持てなかったのを見て、家事仕事に役立つよう沢山の鉄製の斧を婦女子に渡しました。その威力を知った男達はやがて婦女子に貸してもらうようになると、石の斧が象徴する族長社会崩壊につながっていったとの話しです。
Electric mediaというcool mediaの導入により、今度は西洋社会がそれ以上の衝撃を受けると予測します。長きに亘るthe mechanical timeにthe specialist technologyの影響を受けてきた20世紀の西洋社会(“we”)では、個人主義が確立するにつれて部族(tribal)社会が破壊され(detribalized)、国家が形成されてきた。しかし、1世紀前に始まったthe electric age(*14)のmediaをもって人の身体、中枢神経の延長は最終段階を迎える。Electric mediaにより、考えられないスピードで、集合的(collective)かつ 再部族化(retribalized)されたGlobal Villageが形成されつつある。脱部族化(detribalized)された西洋社会は順応に苦戦するであろう、と説きます。
非常に挑発的な見方であり、異論、反論が多いのは確かですが、21世紀のmediaにまつわる問題提起としてチャレンジングな視点を多く提供しているのも確かです。McLuhan自身、本書の目的が、問題を指摘し対処法を考える機会を提供することであると述べており、その目的は十分果たしていると言えるでしょう。McLuhanの議論を良し悪しで判断しないことです。Global Villageについても、the electric technologyがthe nonspecialist technologyであるがゆえに起こりうる結果として述べており、それが良いとも悪いとも言いません。
筆者自身、何度も読みチャレンジ精神を掻き立てられてきました。以下、今回扱った部分に関して巡らした感想の一部です。筆者は1973年にFrancis P. Dinneen教授のGeneral Linguisticsというコースを履修し、An Introduction to General Linguistics(1967, Francis P. Dinneen, Holt, Rinehart and Winston, Inc)に沿って言語学の手ほどきを受けました。最初の時間で習ったことは、言語学は言語の科学的探求(a scientific study of language)であること。科学的探求とは、実験的で(empirical)、正確で(exact)、客観的(objective)であること。
それを前提に、言語の特徴は、音(sound)、線状的(linear)、体型的(systematic)、意味あるもの(meaningful)、抽象的(abstract)、恣意的(arbitrary)(*15)であると学びました。McLuhanの言うhot media的な特徴を連想させるキーワードが幾つか並びます。後にMcLuhanが影響を受けたポストモダン的な言語観も出現しますが、言語学の主流は依然こうした考え方がオーソドックスです。
例えば、言語学の対象が言語の音であるという前提についてです。言語における書き言葉(the written language)はほんの数千年前に出現したこと、また、書き言葉を持つ言語は極一部であること、などから書き言葉が軽視され、話し言葉の分析が主流になったという経緯があります。(*16)しかし、上述通り、McLuhanは書き言葉も重要なmediaとして取り上げ、アルファベットが西洋社会を形成する上で上述したような根本的影響を与えてきたと述べています。言語学ももう少し前向きに書き言葉に立ち向かうべきではないでしょうか。
例えば、McLuhanは、アルファベットのような表音文字はhot mediaとして、象形文字(hierographic written characters)や表意文字(ideographic written characters)はcool mediaとして、それぞれ違った影響を与えると言っています。すなわち、ある言語が文字を持つか、あるいは文字を持たない音だけの言語なのか、文字を持つとしたら表音文字か表意文字なのか、それぞれのケースがもたらす影響を考える必要があると思います。(*17)
関連して、表意文字がそもそもcool mediaなのか、また、日本語のように、カナのような表音文字と表意文字の漢字を併用する言語はhot なのかcoolなのか、その他数々の疑問が湧いてきます。関心ある読者は、[8]The Spoken Word: Flower of Evil?と[9]The Written Word: an Eye for an Earの2篇を読んでみてください。
教育に関しては、lectureはparticipationが少ないhot mediumであり、seminarはparticipationが多いcold mediumであること、同じ理由で、書物はhot medium、対話(dialogue)はcold mediumであること、などの言及に関心が向きます。学習者の参加を促す教育を求めるのであれば、対話のあるseminar形式の授業ということになります。筆者は、講義科目と英語授業を活性化するために、この点を参考にプロジェクト発信型授業を構築し実践しました。21世紀になり、IT化が進み、脱paper、脱printing が加速してmediaは大きく変化しています。教育界全体が真剣に考えなければならないことは確かでしょう。
(2019年2月22日記)
(*1)Understanding Media: The Extensions of Manの初版は、1964年のRoutledge発行(2001年に Routledge Classics 2001として再発行)です。その後1994年にLewis H. Lapham序文付きでMIT Press発行版、 2003年にW. Terrence Gordon序文付きGinko Press発行版(2011年重版)があります。アメリカ主要大学では現在でも愛読されています。本書のタイトルを検索すると、実に、約11億のヒット件数がありますが、筆者は在京のある大学図書館をチェックしたところ、古書を集めた貯蔵室で埃を被っていました。貸出記録の日付を見ると最後に貸し出されたのはかなり前であまり読まれてこなかったようです。それが今回本稿で取り上げてみようと思ったきっかけになりました。テレビ討論“Norman Mailer and Marshall McLuhan Debating 1968”も見てください。
(*2)The personal and social consequencesとthe psychic and social consequencesという句も使っています。Psychic(精神的/心霊的)という語は、personal に入れ替わりのように使われているので個人的なものかと思われますが、[1]編の最後にある集団的無意識(collective unconsciousness)の提唱者C.G. Jungの引用文から判断すると集団的なものかもしれません。これらの句に代わりeffects(影響)やimpact(インパクト)を使っています。本稿では影響・結果という表現を使いました。
(*3)いかなるmediumのコンテンツは別のmediumに過ぎないとさえ主張します。“The content of any medium is always another medium.” 例えば、 Printというmediumのコンテンツはthe written wordであり、telegraphというmediumのコンテンツはprintであると言っています。この意味でmediaは連続性があり、後述のhot mediaとcold mediaも連続性があるものとも考えられます。
(*4)Ferdinand de Saussure (1857-1913)は記号学(論)と言語学の開祖的存在です。社会科学、人文科学、医学をはじめとする諸科学の分野で彼の記号についての概念は基本中の基本です。Le Cours de linguistique généraleも留学前に読んでおきたい本です。最新版の英訳がありますSaussure's Third Course of Lectures on General Linguistics 1910-1911. (1993.Transleted by Roy Harris. Pergamon Press)。
(*5)記号(sign/ 仏語signe/シーニュ)に関して、思想家により様々な言い方があります。Signifier(仏語signifiant), sound image, form, code, expression, form, medium , etc. シニフィアン, 能記, 形態など。Signified (signifié), concept, content, meaning, function, message, etc. シニフィエ、内容、意味、機能など。
(*6)Umberto Eco(1932-2016)をはじめ多くの思想家、哲学者、記号学者の批判を浴びることになります。
(*7)詳細については本書の[1]~[7]の7篇を読んでください。例えば、中世の城壁とか現代の高速道路というmediaが物理的に、そして精神的にどのような変化をもたらしたか、また、アルファベットのような音標文字と表意文字がどのような違いをもたらしたか、両方を使用する日本人にとっては色々考えさせられる材料を与えてくれます。[8]~[33]の26篇で具体例を挙げて説明しています。
(*8)ご存知のようにcoolという語は“He's cool!”など、良い意味で使われます。“He's cold.”となるとネガティブです。
McLuhanの言うcold mediumにはそうしたネガティブな意味合いはありません。むしろポジティブです。よってcold とcoolを交互に使うことによりポジティブな意味合いをサブリミナル的に伝えようとしたのかもしれません。
(*9)本が書かれたのは1960年代初頭です。よって、ここで取り上げられているmediaは当時の状況下のもので、現存するものとは多少の違いがありうることを念頭に入れて判断すべきです。例えば、telephone(cold medium)ですが、1960年代においては固定電話が主流で、現在は携帯電話が主流になっています。固定電話は音声のみですが、現在の携帯電話では音声だけではなく動画で話すことも可能で結構な情報量があり、固定電話とは違ったmediaであるかもしれません。McLuhanのhot media とcold mediaについての議論は大雑把で、疑問をもつのは当然です。
(*10)F.D.R., Newton, Lockeなどは一種のmediaとして取り上げたと解釈できます。もちろん、advanced countriesがhot mediaに慣れ親しんだhot cultureと述べているところから、hot mediaに慣れ親しんだhot peopleという意味でも解釈できます。
(*11)(*6)で述べたように、Coolidge、William Blakeについても、cool mediaかcool peopleのどちらかに解釈できます。
F.D.R.とは対照的に、その人となりについてはブランク(blank)であったCoolidgeは、当時の新聞や報道がその空白を埋めなければ理解できず、それがcoolなイメージ(Cool Coolidge)を生む結果になったとあります。2年前の大統領選の候補Hillary Clinton氏とDonald Trump氏をこの視点で分析してみると面白いかもしれません。
(*12)1960年代初頭の先進国は欧米諸国です。日本はまだ発展途上国でした。
(*13)The Rich and the Poor : a Study of the Economics of Rising Expectations(1959, Roberts Theobald)
(*14)本書“Introduction”に“Today, after more than a century of electric technology,,,”とあり、McLuhanは、the electric ageは1860年代に始まったと考えているようです。
(*15)Saussureの提唱した記号は、上述のように形態と内容が表裏一体のコインのように結びついたもので、その結びつきには何ら合理的な理由がなく恣意的だと言います。例えば、“dog”という語の音が「犬」を指すようになったのは偶然で恣意的慣習だと言います。音標文字を持つ言語の話者と表意文字を持つ言語の話者では、前者の方がよりよく言語の恣意性を理解できるかもしれません。
(*16)歴史言語学(historical linguistics)では、過去の書き言葉しかデータが無いので書き言葉を扱いましたが、Saussure以降の言語学は、通時的(diachronic)に対し共時的(synchronic)な研究が注視され言語の歴史より現在の話し言葉の分析が中心になりました。
(*17)脳神経学では、言語機能の障害を研究する言語障害(aphasia)の分野で言語の音声機能を、また、失読症(dyslexia)や書字障害(dysgraphia)などでは、書き言葉に関連する障害を研究しています。これらの障害から書き言葉の重要性が察せられます。