スペシャルインタビュー

英語を活かしグローバルに活躍されている方や話題の企業や団体にインタビュー

UNICEF東京事務所 副代表 根本巳欧氏
  • 副代表 根本巳欧氏
  • UNICEF 東京事務所

今回はUNICEF東京事務所の副代表根本巳欧氏のインタビュー後編になります。前編の内容はこちら

“色々な“ものさし”を知り、持ち合わせることで、多様な考え方を理解した国際協力に繋がる”

UNICEF(国連児童基金)でのお仕事について

根本氏:
まずジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)として現場に行きました。JPO制度とは、将来的に国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手日本人を対象に、日本政府が派遣にかかる経費を負担して、一定期間、国際機関で職員として勤務させる制度です。日本ユニセフ協会では、広報とアドボカシー(政策提言)を担当していましたので、UNICEFの色々な活動を幅広く知るチャンスにはなりましたが、自分自身の経験として語れないということに不甲斐なさを感じ、20代の若いうちに現場に行きたいと思い始めて、JPOの試験を受けました。
編集部:
JPOとして最初にシエラレオネに行かれた時には、どのような活動をされたのでしょうか。
根本氏:
シエラレオネでは、難民であるかどうかは関係なく、紛争の影響を受けた全ての人々に支援を行いました。特にシエラレオネの場合は、紛争が終結して間もなく、国の社会保障制度や司法制度などが崩壊したままだったので、少年司法をはじめ社会の様々な制度を改革し再構築していく過程のサポートでした。UNICEFで仕事をしていると、毎日のように子どもと接していると誤解されるのですが、実際は現地の役人や政府関係者と毎日のようにミーティングをして、それで制度を変え、法律を作っていくというサポートをしていました。
編集部:
国を一から立て直していくというような仕事ですね。
根本氏:
それに近いものがありました。当時のシエラレオネは紛争後で自分たちの国を再建しようという熱気がありましたので、そういう意味ではとても面白い時期にシエラレオネにいられたと思います。
編集部:
次に派遣されたモザンビークではどのような活動をされたのでしょうか。
根本氏:
モザンビークの場合は国がとても広く、国内の格差もかなりありました。また、派遣された当時はHIV・エイズの問題が南部アフリカ全体でかなり大きな問題となっていて、モザンビークでも成人人口のほぼ6人に1人がHIVに感染しているという状況でした。省庁のカウンターパートの人も毎週のように誰かが亡くなり、教師、医者や看護師も亡くなる中で、どのように医療や教育制度を保っていけば良いのか、また親を亡くしてしまった子どもをどうやってサポートしていくかなど、紛争とは違った大変さがありました。他の国の事例のコピー&ペーストでプロジェクトは作れないので、その国のニーズを考え、文化的なことや社会的背景などを考えながら支援を進めていくのは、面白いところでもあり大変なところでもありました。
編集部:
パレスチナではどのような活動をされていたのでしょうか。
根本氏:
パレスチナのガザ地区で勤務をしていたのですが、ガザのフィールド事務所のナンバー2として、事務所全体のマネジメントを担っていました。専門領域としては、子どもの保護というプログラムの仕事を担当しており、紛争下で心のケアが必要な子どもたちへのサポートをしていました。本来紛争下では、病院や学校は攻撃の対象にはなってはいけないとされていますが、そうした場所が攻撃されることもあり、そのような時には国連として事実関係を確認し証拠を集めたり、パレスチナ側とイスラエル側の両方に攻撃を止めるように働きかけたり、ハイレベルなアドボカシーもしていました。UNICEFとして中立的な立場で双方に働きかけるということもしました。政治的に中立な立場を守りながら、子どもたちのために医療や教育サービスをどのように提供するか、非常に難しかったですが良い経験となりました。
編集部:
その場合は英語だけでなく、その国や地域の言葉で議論をされるのでしょうか。
根本氏:
パレスチナの場合は、人々の基礎学力が非常に高いので、かなりのレベルで英語でも通じていました。とは言え、やはり地元の現場のコミュニティに入ると英語が通じないことがありますので、その場合は現地職員を連れて行って通訳してもらいます。この仕事をしていると宿命になりますが、行く先々で現地の言葉を少しでも学ぶ必要がでてきます。モザンビークではポルトガル語が公用語で、政府との打合せはポルトガル語になるためかなり勉強しました。ただ、地方だと公用語のポルトガル語ですら話せる人が少ないので、そうなると通じるのは現地の部族の言葉だけです。ポルトガル語が全く通じないということもよくありました。

言葉を学ぶというのは、その国の文化や社会を学ぶことに繋がるので、彼らの思考回路を理解するという意味でも非常に重要だと思います。それを認識した上で、その国に何が本当に必要なのか、どのようにサポートができるのか等、国際協力を考えていく上では、スターティングポイントとして非常に重要だと思います。

UNICEF根本巳欧氏インタビュー

現在のお仕事について

根本氏:
日本政府とのパートナーシップの強化という視点から、資金調達も含め、UNICEFと日本政府が一緒に手を組んで、世界の子どもたちのためにどんな活動ができるか、ということを常に考えています。そのために、日本の色々な知識や経験の蓄積を活用できればと考えています。

最近あった活動例を一つご紹介しますと、少し特別な例になるかもしれないのですが、昨年UNICEFを通じてシリアの難民キャンプの子どもたちに、『キャンプテン翼』というサッカーのマンガのアラビア語版を配るということがありました。彼らにとっては、サッカーというのは国民的なスポーツです。平和な頃に『キャンプテン翼』をテレビで見ていた子どもたちもたくさんいます。そういう子どもたちがマンガを読むことで、一瞬だけでも紛争のことを忘れることができる。それは心のケアにもなります。また悲しいことですが、シリア危機発生以来8年目に入りました。これは、紛争の影響で、小学校6年間にわたり、まったく学校に通うことができなかった世代が生まれていることを意味します。学校にきちんと通えなかった子どもたちは、10才、11才でも文字が読めません。マンガに描いてある簡単な文字すら読めない。そういう状況下で、日本でいう高校生ぐらいのお兄さんお姉さんが、子どもたちにマンガを読み聞かせる活動を自発的に行っていたという話も聞いています。マンガを使った支援を毎回どの国に対しても行うわけではありませんが、日本のソフトパワーは、もっと活用して発信していける余地があると思っています。

また、日本の若者は「内向き」になっていると言われます。彼らに世界への関心を持ってもらい、世界の同世代の子どもたちがどんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、想像してもらう。日本から世界へだけでなく、世界から日本へというようなサポートもできればと思います。

UNICEF根本巳欧氏インタビュー

メッセージ

根本氏
自分の“ものさし”だけで物事を考えない、ということが大事だと思います。そのためには外に出ていくこと。それは海外だけではなく国内から始めてもいいと思います。私は東京出身で地方のことを全然知らず、アフリカの農村で開発支援や人道支援を行った時に「地方のことをもっと学んでおけばよかった」と思ったことがありました。自分の育った街だけでなく、外に出て行って多くの方と接し、様々な経験を通して色々な“ものさし”を知ってみる。その時に見聞きしたことについてさらに深く考えることが、世界に目を広げる出発点になるのではないでしょうか。一足飛びに国連職員を目指すのではなく、そういったステップを経て、色々な“ものさし”を知り、持ち合わせることで、多様な考え方を理解した国際協力に繋がると思います。

UNICEF根本巳欧氏インタビュー

UNICEF根本巳欧氏インタビュー
  • 根本巳欧氏 プロフィール
  • 東京大学法学部卒業後、米国シラキュース大学大学院で公共行政管理学、国際関係論の両修士号取得。外資系コンサルティング会社、日本ユニセフ協会を経て、2004年4月にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO、子どもの保護担当)として、UNICEFシエラレオネ事務所に派遣。子どもの保護担当官としてモザンビーク事務所、パレスチナ・ガザ事務所で勤務後、東アジア太平洋地域事務所(地域緊急支援専門官)を経て、2016年10月から現職。
  • UNICEF東京事務所
  • UNICEF東京事務所は、本部パブリックパートナーシップ局の一部として、政府開発援助(ODA)による資金協力をはじめとする日本政府とのパートナーシップの強化を行う。また、国会議員、国際協力機構(JICA)、非政府組織(NGO)等、日本におけるパートナーとの連携促進も担っている。
    UNICEF東京事務所 Webサイト: https://www.unicef.org/tokyo/jp/
上記は掲載時の情報です。予めご了承ください。最新情報は関連のWebページよりご確認ください。