“「英語ができないから」「勉強が大変だから」といって、日本に帰りたいとは思わなかった”
「日本の外の広い世界を見てみたい」という純粋で単純な好奇心がきっかけです。小学校から高校まで公立だったので、中学1年生から英語を学び始め授業以外に特別な勉強はしていませんでしたが、何故か英語がいつも好きで、高校生の頃から「海外で勉強してみたい」「留学したい」という願望を持つようになりました。「大学からアメリカに行きたい」という思いもありましたが、外資系企業に勤務していた父親から、「大学は日本の大学を出て、留学するのはその後で良いのではないか。あまり若くして海外に出ると、日本で通用しない日本人になってしまう可能性がある」とアドバイスされ、おとなしく日本の大学に進みました。大学では、ESS(大学の英語会)でスピーチやディベートのやり方を学んだり、地道にヒアリングマラソンをやったり、それなりに意識して英語の勉強を続けてはいましたが、ヨットと英語会の部活に忙しく、何か予備校にいったり特別に留学準備をするということはしていませんでした。大学3年になっても海外で学びたいという気持ちに変わりはなく、「このまま就職しても、自分はモノにならないだろうな」と感じていたので、大学4年の1年間は、就職活動をせずに、大学院の留学準備に充てることにしました。
特にアメリカにこだわっていたわけではありません。イギリスやカナダの大学院も資料を取り寄せて検討してみましたが、やはりアメリカが数の上でも1番選択肢が多く、そして私にとって身近でした。
正直言って最初の留学であるマサチューセッツ州立大学への入学は「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」そのものでした。とにかく少しでも入れそうな可能性のある大学に片っ端から願書を送りました。下見も行かずに、当てずっぽうでよく決めたものだと思います。専攻は、日本での学部が法学部だったこともあり、社会科学、特に世の中の動きが広く学べる国際政治学、政治学などを希望していましたが、今思えば、それもあまり深い考えがあったとは言い難いです。その時の私にとっては、自分を受け入れてくれ、勉強の場を与えてくれるところならばどこでも良かったし、えり好みするほどの知識がなかったのだと思います。
いくつか返事が来た中に、東海岸のマサチューセッツ州立大学がありました。合格通知と同時に、その大学院で政治学を教えている日本人教授から「是非来てください」という親切な手書きの手紙が届き、また彼女の手紙から、マサチューセッツ州立大学というのは、5つの大学が集中するアマーストという町にあり、色々な意味で勉強するには恵まれた環境であることがわかりました。この教授は私と入れ違いでサバティカルに入ってしまったので、結局のところ在学中は一度も顔を合わすことがありませんでしたが、現地に誰も知り合いのいない状態で学校を選ぼうとしている私にとって、この丁寧な手紙の効果は大きかったと思います。
こうして社会人経験のないまま大学院に入って思ったのは、「実務経験をある程度積んでから、もう一度大学院で勉強してみたい」ということでした。そして、実際のところ、ニューヨークで仕事に就き7年が過ぎた頃に、また学生に戻って勉強してみたいという気持ちになりました。
2度目の大学院は、ハーバード大学のケネディースクールに決めていました。プログラムの内容を比較するため、いくつかの名門から資料は取り寄せたものの、ケネディのMPA(行政学修士)2年プログラムが、私には最も魅力的に思えましたし、既に一つ社会科学系で修士号を持ち、ある程度まとまった社会人経験のある者を対象にデザインされているため、私のバックグラウンドには最も適していると思われました。
また、その時点では、マサチューセッツに住んだこともあり、ハーバード大学のキャンパスにも足を運んだことがあったので、「一生のうち、一度は、世界から一流の才能が集まるハーバード大学で勉強してみたい」という純粋な憧れもありました。最終的に、他の学校はすべて検討から外し、願書はケネディースクール1校のみに提出しました。仕事をしながらの進学準備だったため、願書やエッセイを用意するのにも時間と手間がかかるし、正直、1校の準備をするのが精一杯だったということもあります。「滑り止め」の大学はナシ、完全一発勝負、もし落ちたらまた次の年にチャレンジすれば良いという気持ちで挑みました。
最初のマサチューセッツ州立大学にアプライした当時は、大学院に入るにはTOEFL® テスト(TOEFL® PBTテスト)のスコア600点が必要といわれていたので、それを目標に毎月のようにテストを受けていましたが、なかなか600点には達しませんでした。勉強は、買ってきたTOEFL用問題集をこなし、頻繁に模試を受けるという極スタンダードなものでしたが、出願直前にやっと600点を超えました。試しに、大学院を修了した後に受けてみると、何の準備もせずに受けたにも拘らず647点が取れていました。その違いは、大学院での2年間を通じてのヒアリング能力の向上にあったと思います。
2度目の留学であるハーバード大学院の時には、社会人だったので忙しかったこともあり、TOEFLテスト(TOEFL® CBTテスト)の受験は、ほとんどぶっつけ本番の状況で、1度しか受けることができませんでした。ただ、その時点ではアメリカ生活も10年が経っていたので、さすがに英語にはかなり慣れており、TOEFL CBTテストで290点でした(2003年)。当時のハーバード大学で何点が求められていたか、もう覚えていないのですが、その得点であれば十分余裕だったと思います。ただ、アイヴィーリーグの場合、TOEFLテストやGRE等スタンダードテストのスコアは、足切りに使うくらいで、実際の合否の決め手になるのはエッセイや推薦状だと聞いていたので、いずれにせよこのスコアで大差がつくものでもないのだろうなと思っていました。
とにかく最初は何も聞き取れず、喋れず、読み書きは遅く・・・という三重苦、いきなり4、5歳児にでもなったようでした。授業中、ノートを取ろうと思うと先生の言っていることが耳に入ってこないし、逆に聞くことに集中しようとするとノートが取れない。仕方がないので、小さいテープレコーダーを持っていって、講義を録音させてもらい、授業の間は聞くことに専念しました。ノートは帰ってからテープ起こしをしましたが、これがとんでもなく時間がかかるものでした。加えて、読まなくてはいけない宿題、書かなくてはいけない宿題も山ほどあり、これまた読むのも書くのも人一倍遅いので、結局は寝る時間がなくなる・・・という日々でしたが、不思議なことに「英語ができないから」「勉強が大変だから」といって、日本に帰りたいとは思わなかったし、落ち込むこともありませんでした。ただ、「ああ、やっぱり全然ダメなんだな」ということに納得しつつ、「早くもっと英語ができるようになりたい」と思っていました。1年目はそんな調子でどうにかこなし、2年目は多少マシにはなりましたが、楽というには程遠い状態でした。
マサチューセッツ州立大学の政治学専攻大学院ではその当時、私が唯一の日本人だったので、何かわからないことがあっても、日本語で聞いて確かめる相手がいませんでした。でもこれが良かったと思います。かわりに仲良くなったインド人、イギリス人の同級生には本当に良くしてもらいました。2年目には、そのインド人とアメリカ人の同級生と3人で一緒に家を借りて住むことになりました。インド人の彼女は、自分の勉強もあるのに、私が書いたものを2年間すべて添削してくれました。修士論文も、彼女の添削とアドバイスを受けて出しました。その頃には、「英語が随分良くなった」と褒められるようになっていました。
また、インド人、アメリカ人と共同生活をしたのは、学校で使う英語とはまた違う、生活の中の言葉(スラングや悪い言葉も含めて)を覚えるという意味で非常に有益だったと思います。一緒に台所に立って料理をしたり、テレビを見たり、映画を見に行ったり、パーティーに行ったり、電話での会話を耳にしたり、そういう日常の中で色々なことを自然に吸収していったのだと思います。
2度目の留学であるハーバード大学院では、マサチューセッツ州立大学とは全く違う経験をすることになりました。まず言葉の面での苦労はほとんどなかったので、その点は精神的に随分楽でした。また、社会人経験を経て学生に戻ったので勉強に対する飢えがあり、そして「24時間がすべて自分のために使える」ということの自由さをつくづくありがたいと思いました。勉強の量は半端ではありませんでしたが、ハーバード大学の授業は面白く、学校は勉強したい学生に対しては徹底的に至れり尽くせりで、先生方も同級生たちも素晴らしかったので、睡眠不足でも課題が難しくても、苦痛だと思ったことは2年間で一度もありませんでした。2年間が終わる頃には「もう終わってしまうのか~」と哀しい気持ちになったくらいでした。
次回(2016年3月22日号予定)も引き続き渡邊裕子さんの留学経験者インタビューの後編をお届けします。お楽しみに!