For Lifelong English

  • 鈴木佑治先生
  • 慶應義塾大学名誉教授

第100回 For Lifelong English 第100回記念ご愛読御礼-執筆するに至った経緯について

本コラムFor Lifelong Englishは、TOEFL® Web Magazine(*1) Vol.58(2007年6月号)掲載の第1回目から数えてVol.108(2016年11月号)掲載の本稿が第100回目となります。

皆様にはこれまでの永きに亘りご愛読いただき心より御礼申し上げます。

第100回目に当たる今回と第101回目の次回では、その節目としてこれまでの99回で述べたことを振り返ってみたいと思います。今回は筆者が本コラムを執筆するに至った経緯を述べ、次回は筆者と根本斉氏(当協議会事業統括本部長)による、この間の英語教育における変遷についての対談を掲載いたします。

筆者が国際教育交換協議会(CIEE)日本代表部(以下、CIEE)TOEFL事業部と関わるようになったのは1980年代初頭でした。長期の米国滞在を終えた筆者は1978年に慶應義塾大学経済学部の英語専任教員として採用され、1、2年生の必修英語を担当し始めて3年経た頃でした。まだ30代半ばの筆者も幾つかの役職を任ぜられ、その一つが慶應義塾大学国際センター副所長(兼任)で、教える傍ら日吉キャンパスの藤原記念館にあった日吉国際センターの運営に当たりました。

慶應義塾大学国際センター本部は三田キャンパスにあって、その運営会議が全キャンパスの国際交流関係の諸事の運営を担いました。その一つが交換留学の募集と候補者選抜です。交換留学提携校は複数あり、Brown University、Stanford University、Dartmouth College、Georgetown Universityなどの有名校が名を連ねていました。応募者は多数で、成績、志望書、面接などに加えてTOEFL® PBTテストスコア(*2)を提出しなければなりません。

これらの大学は一般留学生に対してTOEFL PBTテスト600点(TOEFL iBT® テスト100-110点相当)以上を要求していましたから、交換留学で派遣される学生もそれに見合う得点をあげなければなりません。それは日本の大学生にとって至難の技です。筆者自身も日本での大学と大学院時代に身をもって体験し痛感したことです。筆者は英文学を専攻しましたがそこで培った英語力では歯が立ちませんでした。早くにTOEFL PBTテストを意識し、それに向けた英語学習に切り替えなければ対応できません。

まず、TOEFL PBTテストを身近に感じさせることから始めよう、その為の環境作りが急務であると考えました。そこで筆者が最初に手掛けたのは、国際センター運営委員会と大学執行部の承認を得て日吉国際センターをTOEFLテストの会場にし、TOEFL PBTテストを実施できるようにしたことです。その後三田キャンパス国際センター本部でも実施しました。

筆者自身同テストのSupervisorの任に就き、CIEEのTOEFL事業部と綿密な打ち合わせを行ってつつがなく実施することができました。これがCIEEとの交流の始まりです。その後、筆者は1990年に開設された慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)に移籍しました。そこでは環境情報学部と総合政策学部の1年生約1,000名全員を対象にTOEFL ITP® テストを導入しました。現在でも継続されていると聞いております。

1990年~2008年までのSFC在籍中は、初代学部長加藤寛先生より筆者に託された以下の3つの課題を念頭に英語プログラムのモデル作りに邁進しました。
(1)使える英語のプログラムの開発・導入・実践
(2)学生がいつでもどこでも学習できるオンライン化の促進
(3)英語が苦手な学生のケア
TOEFLテストを管轄するEducational Testing Service(ETS)もTOEFLテストの改善、特に紙ベースからコンピュータ化を促進する時期に当たり(*3)、CIEEのTOEFL事業部と頻繁に意見交換する機会が増えました。ETSの代表団がSFCを訪れて意見交換する場も設けていただき、熱く議論したことを覚えています。(*4)

さて、筆者の母校、慶應義塾大学は1868年に英塾として創設されました。幕末の戦乱の最中にあっても塾生はFrancis Wayland(1796~1865)のElements of Political Economy(1837)を原文で読み続けたと伝えられています。(*5)
筆者はその話に感動し慶応義塾大学で学ぶことを選びました。TOEFL iBTテストは難しいと敬遠する声をよく聞きますが、創設者の福澤諭吉先生ならそのような声に耳を傾けるはずがありません。筆者自身、在学中の1962~1966年頃、キャンパスで話題になりつつあったTOEFL PBTテストについて情報を集め始めました。そうした伝統があったからだと思います。当時の慶応生の多くが挑戦し、筆者もその一人でした。

アメリカの大学院修士・博士課程で学位を取得するには、TOEFL PBTテストで高得点をあげる程度の英語力ではついていけません。更に高度の英語力を要します。筆者はその後の留学生活でネイティブ・スピーカーでさえ悲鳴を上げて途中で去って行くのを目の当たりにしました。在籍した言語学の博士課程では、1973年の秋に入学したのは筆者を含めて10人でしたが、2つの大きな試験に合格して論文を書き終えて学位を修了したのは3名に過ぎません。ちなみに留学生は筆者を入れて3名で修了したのは筆者のみです。アフリカ某国から来た同級生が授業について行けず、激しい内戦が続く母国に帰国していった姿は今でも目に焼き付いています。

もっとも、過去40年間のアメリカの大学との交流で筆者が知り合った多くの大学関係者が、1970年代を振り返りながら、あの頃はその後の時期と比較し考えられないほど多くの学生が成績不振でdropoutしたと述べていたことを付記します。いずれにせよ厳しかったのは事実です。

そんな体験をした直後の1978年に母校の英語教員として赴任するや、最初に気になったのは、学生の多くが大学入試を終えて大学生になるや英語学習の目標を喪失しモラトリアム状態に陥ってしまうことでした。

この傾向は、以来今日に至るまでずっと変わっていないような気がします。慶応義塾大学経済学部でも、SFCでも、慶應義塾大学を定年退職後招いていただいた立命館大学の新設学部生命科学部と薬学部でも、新入生が「予備校時代の学力が最高であった」というのをよく耳にしました。英語については特にそう感ずるようです。悲しいことには、日本の受験英語は日本の大学に合格するかどうかを診断するためのものです。英語コミュニケーション能力を診断するものではありませんから、どんなに研鑽を積んでも実際のコミュニケーションに機能する能力とは言えません。

コミュニケーションの観点から見ると、無駄とは言えないまでも、費やした時間ほどの効果がないという残念な結果になってしまいます。再度やり直しても同じ結果に終わってしまいます。英語を学習する本来の目標を示してあげればよいのです。従って、筆者の新入生の英語授業の1時間目はそのことに費やしました。コミュニケーションの仕組み、伝達メディアの一つとしての言語の役割、母語の大切さ、外国語というより第二言語化しつつある英語の役割、日本の大学生に求められる英語力等など、筆者の日本における大学・大学院生活、アメリカ留学中の大学院生活の実体験を踏まえて話しました。

そこでTOEFL PBTテストに挑戦して新たな目標を見出す環境を作ろうと考えたのです。ここが入口です。ほんの入口なのです。難しいからなどと迷っていたら先に進めません。

そこで、黒板には大きく「TOEFL」と書き、大学4年生の間にできるだけ早い時期に必ず受けるよう促しました。というのは、受験勉強でできたつもりの英語力ではまったく歯が立たないからです。日常生活から学問分野に至るまで英語で聞き、話し、読み、書きができなければお手上げです。1978年に慶応義塾大学の経済学部でこの話をした時には皆真剣でした。授業後何人もの学生が残り更に質問してきました。

それはそうです。彼らの何人かは就職すると海外研修としてアメリカのビジネス・スクールに行くことになるかもしれなかったからです。それから1989年まで同学部に在籍しましたが、在学中や卒業後かなり多くの学生がアメリカに留学し修士号を取得しました。中にはその後に博士号を取得した人もいます。殆どが大学在学部中に筆者の助言通りにTOEFL PBTテストに挑戦してそれなりの準備をした人達ばかりです。大学院選びから志望動機書(statement)、GRE、GMATなどについての相談に乗り、何通もの英語診断書(English assessment forms)、推薦状(letters of recommendation)を書きました。学部在学中から準備をしていた人達ですからほぼ全員が志望する大学院に進んだと記憶しています。 現在、彼らは国内外で活躍しています。

その後の1990年からSFC在籍中には、先ず、1、2年生からアメリカの文化を体験しアメリカ人学生と共同でプロジェクトを組める夏期研修を手作りで構築し実践しました。選んだ大学はCollege of William and Maryです。当時日本人の多くは西海岸と東部の大学の既成の夏期研修に集まっていました。College of William and MaryはColonial Williamsburgにあり300年以上の歴史を誇り、卒業生にはThomas Jeffersonなどが名を連ね、アメリカでは知る人ぞ知る名門校です。(*6)

しかし、日本では無名でしたから日本人の学生はSFC生のみでした。日本人どころか他の国からの学生もおらず、現地の学生と英語で話す環境が整っていました。毎年40名ほどの学生を連れて行きましたが、筆者が敢えて世話をするまでもなく、学生たちはアメリカ人の学生や現地の人たちと交流し、結果、必然的に海外留学への意識が高まり、自発的にTOEFL CBT® テストを受けるカルチャーも根付いていったのです。

そうしたことを受けて、筆者自身も自身の学部・大学院の英語と言語関係の授業において、College of William and MaryやイギリスのOxford University などとオンラインで繋いだ共同授業をしました。そうする内に学生はTOEFL CBTテストをはじめGRE、GMAT、LSATなどのテストをかなり身近に感じるようになった筈です。(*7)

立命館大学生命科学部・薬学部では、慶応義塾大学SFCで考えた英語プログラムの集大成として「プロジェクト発信型英語プログラム」を構築し両学部全学生対象に実施できました。しかし、筆者が着任する前に両学部が設立されたびわこ・くさつキャンパスでは1、2年生対象にTOEIC IPテストが導入されておりましたので、TOEFL ITPテストを使用できませんでした。そこで筆者は3年生を対象にした専門英語 1(必修)の履修者を対象にTOEFL ITPテストを導入することに成功しました。筆者が引退した2014年3月以降のことは定かではありませんが、その後も続いていることを望みます。

1年次には日常会話もままならない学生さんが2年次終了時には全員専門的なアカデミック・ペーパー(英文4~5枚程度)を書き、発表し、専門英語1ではさらに練ったアカデミック・ペーパーを書いて英語でポスタープレゼンテーションを専門家の先生方の前でできるわけですから、TOEFL ITPテストで英語力を診断させて次につなげるべきと考えた訳です。

TOEFL iBTテストにはspeakingとwritingがあります。前者は1年次からプロジェクトを組ませてプレゼンテーションとディスカッションをさせましたので問題はありませんでしたが、writingではCIEEにETS開発のCriterion(*7)と称するソフトウエアを紹介していただき学生全員が使用できるようにしました。彼らはこのソフトウエアを使ってアカデミック・ペーパーを修正しましたがその過程で今まで習った英語語彙・表現・文法を復習し相当良い自学自習の機会になった筈です。

慶應義塾大学の30年間そして立命館大学での6年間のこれらの多くの活動の中で、筆者は何度も何度もCIEEのTOEFL事業部の方々と意見交換をしました。日本ほど英語教育に時間と費用を費やしてきた国はあまりありません。国家としてはほぼ150年余、個人個人は現在では小学生から大学院生まで必修科目として英語を学習します。そんな長い伝統の中でそのくらい力を入れて学習したら高校卒業時にアメリカやイギリスやカナダやオーストラリアの大学に留学できる程度の英語力を身に付けた生徒が多く出てしかるべきでしょう。

留学するかしないか、それは別の問題です。英語圏の大学に入学できる英語力が十分につく英語プログラムが成長し、学習者がそれ相応の英語力が身に付いてしかるべきものと考えます。既述したとおり筆者の母校慶応義塾は英学の発祥地です。そうしたことを踏まえて筆者は英語の授業を担当してまいりました。日本人の多くの学生が本気になればそうした水準をクリアできることを筆者は確信しています。若者が一念発起した時の凄さを知っています。TOEFLテストは一念発起の為の起爆剤です。

筆者が本コラムを書くに至ったのはこうした思いがあり、書くたびに募り今回で第100回を数えるに至りました。次回はCIEE根本氏と対談いたします。筆者が慶応義塾大学SFCと立命館大学生命科学部・薬学部で教鞭をとっていた時以来、根本氏とは英語教育について忌憚のない意見交換をしてきました。

 

(*1)TOEFL Web Magazineは発足時の名称がTOEFL Mail Magazine でした。その後、2013年5月号第58回よりTOEFL Web Magazineに名称を変更しました。
(*2)当時のTOEFLテストはペーパー版TOEFLテストでした。
(*3)SFCの最新設備を使いインターネット版TOEFLテストのTest runに協力しました。
(*4) 毎年SFC生のTOEFL ITPテストの成績の集計結果の分析も含め意見交換については、拙著『英語教育グランドデザイン:慶応義塾大学SFCの実践と展望』(2003年、鈴木佑治、慶応義塾大学出版会)で触れております。ご関心の読者はご参照ください。
(*5)Francis WaylandはBrown Universityの4代目総長を務めました。慶応義塾大学がBrown Universityを交換留学提携校にしたのはそうした縁もありそうです。
(*6)College of William & MaryのReves Center for International Studiesにおける当時Directorの James A. Bill 教授(Government)とVice Director のCraig Canning(History)教授と共同でプロジェクト発信型Keio SFC Summer Program at College of William and Maryを開発しました。その後同プログラムは慶応義塾大学全体のプログラムに成長しました。
(*7)Criterion を参照してください。
(*8)『グローバル社会を活きる為の英語授業』(2012年 鈴木佑治 創英社・三省堂)に詳細を記しました。

 

(2016年10月28日記、11月2日入稿)

 

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